梅雨は苔むす

つゆのはっかの個人ブログ。育児とか教育とかしょうもない話とか。

「みんな一緒みんな嬉しい」の【みんな】

仕事中テレビをつけっぱなしにしていたら「アレルギーを持っている子にも美味しい食事を」という感じの番組がやっていました。

 

ざっくり説明すると、ご自身のお子様に食物アレルギーをもった子が生まれ、アナフィラキシーショックを起こし入院するなどの経験を経てアレルギーの子にも楽しく美味しい食事を提供したいと考えそうした会社を立ち上げた…というお話でした。

先に誤解のないように言いたいのですが、アレルギーは即治るものではなく、ショック状態になると命に関わるものなので無理に食べさせるものではありません。昨今代用食や除去食は増えたものの、まだまだ「こんな料理があったら…」という親御さんやお子さんの気持ちはあるでしょうし、そうした事を仕事として提供してくださる姿勢や取り組みには頭が下がりますしできる限りの応援はしたいと考えています。本当に素直に素晴らしいと思います。

 

そんな話の中で、どうしても一点私がもやもやとした事がありました。それが「みんな一緒みんな嬉しい」という番組の中で出てきた言葉です。

そのご家庭は、3人兄弟の末っ子のお子さんが食物アレルギーを持っていて、末っ子さんが食べられるハンバーグをみんなで食べているそうです。

それ自体は、私は家族が納得しているなら何も問題ないと思います。例えば兄弟や親子で、一口頂戴とかあげるなんてやり取りは可愛いですし微笑ましい。何よりそうした経験が悪い事ではないのは明らかです。

みんな一緒だから、みんなで楽しい嬉しい食卓が囲める。それは間違いではありません。でも、この家庭ではそうでもひとたび外に出てそうかというともやっとしてしまうのです。

 

まずそもそも…テレビ番組というものの捉え方の問題があります。「この家庭だけの話を放送している」のか「この家庭が成功例であり模範となるといいと思って放送している」のか…。前者であれば、ここでもやもやを私が感じる事は余計なお世話です。だってとある家庭の話をしてるだけですから。誰かに迷惑をかけていないなら家庭に他人が口を出すものではないと私は思っています。

ただ、テレビで全国放送していて「この家庭だけの話」というのはちょっと難しいかなと感じます。番組で取り上げられた方がそう思っていなくても、少なくともこれで番組にしようと思ったディレクターさんは何かしら「伝えたい」と思ったから番組にしたのでしょうし。

 

さて、話を戻します。

はっきりと言うと私は「食物アレルギーのある子に合わせて他の子どもたち(兄弟)の食事をその子に合わせる事」が「みんな一緒みんな嬉しい」なのかと言われるとそれは違うのでは?と思っています。

勿論食物アレルギーのある子の食事を、アレルギーのない子に合わせる事は食材によっては難しいです。先に述べたように食物アレルギーは努力や気合いで即治るようなものではありません。時間の経過と共に軽くなる人もいますが、大人になっても体質として食べられない、というのが食物アレルギーです。

ですが、食物アレルギーのない子どもに除去食を食べさせるというのは、食べれるしもしかしたら好きなものも「一緒に食べられないなら食べてはいけないもの」になってしまいます。

これは各ご家庭の考え方なので、あくまで家族全員の時だけ、パーティーの時だけ…後は別々に作る時もある、という方もいると思います。またこれはみんなで食べられる、これはわけるね、と決めている方もいるでしょう。そこは本当にご家庭でお決めになられる事と思います。

 

でも、テレビで「みんな一緒みんな嬉しい」と放送するのは、そうでなければ嬉しくないという呪縛も生んでしまう可能性があります。少なくとも私は若干引っかかりを覚えました。

これは多分、番組の構成の問題なのだと思います。取り上げられていた方が悪いわけではなく。その方はアレルギーを持つお子さんとその家族に精一杯手を差し伸べているのだと感じました。

本当に所々…小学校になると代用食がなく持っていかなければいけないという内容もありましたが、確かに今現在はそれを準備する親御さんが困っている所に、代用食の提供をする…それは本当に困っている親御さんは助かると思います。ただ、これを放送するならば訴えなければいけない先は市区町村や国ではないかな?と感じます。

この辺り…ただ素晴らしい!で終われない私の性格が良くないとも思います(いえ、本当に素晴らしい取り組みとは思ったんです)。でもそもそも、義務教育で登校している児童の給食の代用食について、親が用意するという事にまず疑問を持つ必要が根本的な話では?とも思ってしまったんです。

 

少し前、ネットで小学校の給食にヴィーガン食を取り入れる話が炎上しました。あれもヴィーガン食の否定というよりは、ヴィーガン食であればみんなが食べられると言った食物アレルギーへの軽視や誤解があった事や、あれは主義であって無農薬などとは違うといった事が炎上した理由だったかと思います。

勿論子どもによっては、みんなと同じものが食べられない事に寂しさを感じたり、みんなと同じがいいと感じる事はあると思います。その気持ちを汲んで「今日はみんな同じもの」の日があっても、それがおかしいとは思っていないんです。

あくまでそうする事で満たされる「今日は同じものが食べられたね」というその幸せは、誰かが誰かに【合わせる事】で出来上がっているのです。それを【合わせたくない】と思うのも、本当は子どもの自由意識なんだと思います。

 

ちなみに食物アレルギーの子に対して「私はあわせたくない。あなたが合わせて」は勿論いけません。食物アレルギーの食材を食べさせる事は場合によっては相手を死に追いやる危険な行為です。ですからそれは、絶対に、やってはいけません。

では、食物アレルギーのある子…もしくはその親が、アレルギーのない子に対して「あなたも除去食を食べなさい」と合わせさせるのはいいんでしょうか。確かにそこに命の危険はないでしょう。食べ物として嫌いでないのなら問題らしき問題はないのかもしれません。

でも【合わせる】という行為を、相手に強要するのであれば、それが子どもにとっていい事とは、やはり言えないでしょう。

【合わせる】というのは、相手の優しさで成り立っている所が大きいです。好き嫌いでも、今日はあなたの好きなものに合わせるから今度は私の好きなものにしてね、なんて大人の世界でもよくある話です。子どもの世界では、年齢によってその折り合いや相手の想いを考える…という事を学んでいる最中だったりすると思います。

 

「みんな一緒」という状態を作るためには「誰かが誰かに合わせる」という行為を必要とします。そこに「みんな嬉しい」をつけてしまうと、一つ間違えると搾取される人する人という構図が、悲しいですが出来てしまう恐れがあります。

 

私も人の親になりました。子どもが2人いるので、子ども同士がいがみ合わず助け合って過ごしてくれたらいいなとは思います。

でも、もしこの先子どものどちらかが介助を必要とするようになった時、もう片方の子どもに「兄弟だから助け合わなければいけない」と教えてしまったら、それは子どもたちを一人一人の別の人間だと親が認識してないと言ってしまうのと同意義になってしまうと考えています。

助け合うか合わないかは本人たちの考え次第です。「助け合ってくれたらいいな」と親が思う事と、実際子どもたちがどうするかは別の話です。そこに親が「しなければいけない」と強制的な声かけをするのは、兄弟間や親子間どころか、その子の人生を壊してしまう可能性もあります。

 

「みんな」と括ることでやんわりと真綿で首を絞めてしまう…最近そうした事例が増えた気がしています。そのみんなって誰なんでしょう。勿論食べられるものができて美味しく食べる子どもを見ているのは親としてとても嬉しいです。大人は…親は自分の子どもに合わせる事もできる人が多い気がします。

でも子ども兄弟に必ずしも「みんな一緒だからみんな嬉しいでしょ」と言ってしまうのはちょっと待っていただきたい。

もしかしたら「僕は卵と牛乳の入ったハンバーグが食べたい。僕は食べられるよね?」と言われた時…それは何一つ悪い事ではなく、それこそそれを言った子どももあなたの子であるならば、その子の好きだと言った物も食べさせてあげてほしい。合わせない事は相手を悲しませる事…悪い事だとは思わせないであげてほしい。

合わせてあげる優しさは本当に素敵です。でも子どもに合わせる事「ばかり」伝えるのだとしたらそれは待ってほしい。

「みんな一緒の時もある みんな違う時もある でもみんな幸せ」でもいいのではないだろうか。

 

重ねて書きますが、食物アレルギーの子どもたちや方たちのために、その家族のためにさまざまな美味しい代用食を考えて作って下さっている会社の方には本当に頭が下がります。本当に素晴らしいと思う。それは切り分けて下さい。

また、仕事の合間に見たのでもしかしたら番組の中で私が確認した事とは違う内容もあったかもしれません。その場合は申し訳ない。

 

新年も色んな人が色んな美味しい食べ物と出会えますように。

身近な「私のモノ」

生きている時間が長ければ長いほど「自分のモノ」と言える物は増える傾向があります。勿論途中で手放したりする事はあるので「今、手元にある物」としては多くなったり少なくなったりするかもしれないけれど、一度でも「自分の物」と呼べる物に一瞬でもなったとカウントしていくと基本は多くなる…はず。多分。多数派はそうだと思う。

そんな「自分のモノ」の中でも、相当初期、初期中の初期に自分のモノになったものがある。それは【名前】

名前は自分で選べず、親だったり祖父母だったり、はたまた他の誰かに一方的にプレゼントされるモノで、気づいた時にはその名前を自分の事として認識する事がほぼほぼ多い。

とはいえ、思春期の頃には「自分の名前嫌い」と思った人も少なからずいると思う。少なくとも私はそうでした。中世的な名前に憧れて、女っぽい名前が嫌で嫌で仕方なかった事がありました。割と長く拗らせてたかなぁ…むしろ自分の名前を好きというかとりあえず納得できる様になったのはむしろ割と最近かもしれない。

そんな私でも、名前に愛着は持っていた様で子どもの頃には面倒な拗らせ方をした事もありました。早数十年前…パンダブーム絶世期の頃、新しいパンダが来るとテレビで放送しまくりの時代(…今もか)。とあるパンダの名前が発表され、テレビでは可愛いとか良い名前なんてもてはやされていました。そしてたまたま、そのパンダの名前は私(当時3歳)のあだ名と同じだったのです。

私は喜ぶ所か爆泣きwwww 名前(いってもあだ名)取られた!私のなのに!!とガチ泣きしました。今でもうっすら自分で覚えてるくらいに衝撃的な出来事でした。子どもの私には、あだ名はかぶる事もあるとか、名前はかぶる事もあるとか、そういうのがまだわかっていなかったんですよね。

流石に5歳くらいにはもうその辺りも認識して、別にどうこう言う話ではないと理解しました…が、実はこんな事もあって私はパンダが未だに好きではなかったりしますw(勿論好きな人の否定をする気は無いです)

先に述べたように、思春期の頃は嫌いになったりもしたので、1番近くにあり続けるからこその愛憎劇な気もします。人によっては、親に付けられた名前の名前自体や、意味合いなどどうしても折り合いつかず変えたいという方もいるだろうし、実際変えたという話もたまにニュースになります。大事だからこそ、親からの贈り物とはいえ受け入れられないという事もあるだろうなというのは想像に難しく無いなと。数年前にはキラキラネームだのシワシワネームだのというのが話題にもなりましたしね(よくよく考えると人の名前捕まえてキラキラだのシワシワだのだいぶ大きなお世話感)

ただ、私自身自分の名前を好きになれたのは割と最近です。成人した時ですら苦手意識がありました。子どもを産んで名前をつける時、その自分の経験はだいぶ頭を悩ませましたね。息子が生まれた時はまだ…でも娘が生まれた時は本当に悩んで、出産日数日前に決めていた息子に対して、出産日にようやく1番候補ができたレベルでした。親2人で文字通り頭を抱えて決めた名前…子どもたちがその名前をどう感じてくれるかは、これから先の話です(ドキドキハラハラ)

皆さん、自分の名前好きですか?

幸せについての方程式

定期的に思う。

宝くじ一億円当たらないかなぁぁぁぁ

 

子どもの頃はそこまで感じなかったけれど、中学生や高校生になると欲しいものの値段も上がり、やりたい事にもお金がかかるようになりました。

仕事を始めれば「お金があれば楽できるのに」なんて考えた事のある人は割と多いのではないでしょうか。私は少なくともそれを考えたクチです

自分や子どもの経験だって、お金が無くてもできるけど、あったらやっぱり出来る事が広がるのは事実。お金が全てなんて思わないけど、ないよりあった方が明らかにいい

宝くじは「た」を取れば空くじなんて言うけれど、泡銭かもしれなくても一攫千金を願ってしまう。

刑事ドラマも恋愛ドラマも「金」の絡む関係性が問題になるのはよくある事。

 

勿論、お金持ちになれば幸せだとは思ってません。お金がある故に事件に巻き込まれる話も少なく無いですし、今は良くても将来は…なんて事も、持ったら待ったであるのかなと思っています。

 

先日、家族でピクニックをしました。

ピクニックと言ってもコロナ禍ですから、近くの広い公園で家族だけのこじんまりとした日向ぼっこの様なものです。

その時にビニールシートを出した時、夫がそれを見て私に言いました。

「ねぇ。ビニールシート、好きだよね?」

実は言われるまで気づかなかったのですが、私は時々ビニールシートを買います。有るんですが、買っちゃいます。と言っても主に100均なのですが、今現在…5枚?ほどあるかな??

言われて、確かに多いな…とは思うものの、好きなのかと言われると別に好きな覚えは有りません

ありません。ええ。

でも確かに、約5枚って少なくはない。むしろ無駄にある気がする。なぜこんな事になったのか。性能が違う、サイズが違うなど、一応「同じもの」は無いんです。

そして自分でもちょっと気になって考えてみました。

 

…私にとって「ビニールシート」は【幸せの象徴】なのかもしれない。

 

ビニールシートは1人でも使いますが、私は「1人ならビニール袋でいいわ」ってタイプです。そんな私がビニールシートを持ち歩く時は、自分以外の誰かといる時です。友達でも家族でも、とりあえず一緒に出かける約束をした誰かといる時に使う物です。そして最低限、その荷物を持っていくという労力を払っても構わないと思っている相手といる時に使う物です。

 

自分も知らない自分の事と言いますか、あーなるほど…と思った自分でした。

ちなみに私にとっての【幸せの象徴】に当たりそうな物は、他にも思い当たるものがあります。

例えば、某アイス屋さんの6個パックとか。

多分、皆様にも何かふとした【幸せの象徴】があったりするんじゃないでしょうか。一本の缶ビールとか、絶対変えられない枕とか…。たまにはそんな物に想いを馳せるのもいいのかなぁ、なーんてちょっと思ったりしました。

 

以上、幸せについて本気を出す気にはなれなかったけど考えてみた。

 

(by イワャカン174)

これは、多様性の話(第一次献立紛争〜納豆事変〜)

私は独身ではありません。そして単身赴任もしていない上に子どももいるので、家には私以外の人間が一緒に住んでいます。

子どももまだ小さいので、食事によっては大人とは別に作る事もあります。また個々の好き嫌いから避ける食材が存在し、場合によってはそこでも違う料理を用意しなければいけない時もあります。

ぶっちゃけ面倒くさいよ?面倒くさくないって事はないよ?

でもやらないといけなかったり、だって私鶏肉食べたいんだもんよ(鶏肉嫌いがいる)。

例え同じ生活をしていても、好みとは面白いですが分かれます。それが夫婦ともなると、そもそも「今」一緒に過ごしてるだけで「過去」は別の家庭。ましてや住んでいた地域が違えば尚更に好みが違うのなんてむしろ騒ぐほどの話でもない

夫は、とにかく納豆が好きです。私も納豆は好きなんですけど、夫の好きは私がちょっと引くレベルで好きです。1日に3パック以上食べていた事もあり、流石にそれはやめてもらいました。それでも毎日1日1パックは必ず食べます。

この納豆。先に言ったように私も好きなので「匂いがー」とか「ネバネバがー」とか喧嘩になる事はありません。というか納豆で喧嘩をした事は一応無いです

ただね……夫は、何にでも納豆をかけます。ご飯だけではなくカレーにもかけます。カレーはね、まだ許せたんですけど…ハヤシライスにもかけるんですよ。

流石にハヤシライスはなくない?!と叫んでしまったんですよね。でも夫は全然平気なんだとか。…いやぁ私にはできないわ。

そんな事もあってか、私としては夫の方が「味が混ざる事に抵抗が少ないタイプ」かと思っていました。ですがある日夫に言われました。

 

「え…?それ混ぜるの??…俺には無理だわ……」

 

っていうかそんなに?そんな深刻そうに言われるほど?!(もうドン引きの雰囲気モリモリ)

その時私が食べていたのは「卵ご飯、海苔の佃煮乗せ」。以前テレビで卵ご飯に混ぜると美味しいものでやっていて、やる様になってからハマってよく食べています。とはいえ、子どもが産まれてからどうしても一緒に食事ができないのもあって(親は交代で食べている)夫は私が食べてるのを見た事が実はなかったらしいんですよね。

まぁ、私が好きなものを好きになれとは言いませんよ。とはいえ流石にそこまでドン引きする事もなかろうよ!!と思いつつ、とはいえ夫も「それやめて」と言うわけではない。

 

ああ…多分身近な多様性ってこういう事なんだろうなぁ。好きな食べ物嫌いな食べ物…そういうのをお互いに否定するでも肯定するでもなくても、へぇそうなんだね。で理解する。生活に学びは転がっているとたまに聞くけれど、確かに思い起こすとそうなんだと思う。とはいえそんなの思いもしないまま通り過ぎて行く事の方が生活の中では多すぎる。でも生きてるだけで、やっぱり経験値は多かれ少なかれ増えてはいるんだろう。そんな事をふと考えてしまいました(酒を飲んでいたわけでもないのに)

子どもたちが大きくなったら、ちょっとそんな話もしてみたい。

 

でも、お子さまズ。あなた方の嫌いはまだまだ戦わせていただきます。

人参食べて!!!!!!!

 

(by イワャカン174)

自分の惨劇の理由

殆どの女性が、経験しますよね。月経。

今回そんな話です。主に生理用品の話。女性の必要な人が少し情報になったりクスッとしてもらえたら嬉しいけれど、身勝手な趣味で見てる人は回れ右してもう来ないで下さい。

 

はい。若い頃はマジで面倒くさい以外の何者でも無く、生理痛があろうものなら本当になんでこんなもんあるんだよ…と悪態の一つくらいつきたい。

私は学生時代から生理痛がひどくて、腹痛は当たり前、そこに下痢頭痛吐き気(たまに嘔吐まで)倦怠感、異常な眠気などなど…………よく生きてるなふふふ何て思う感じで月に2日ほど苦しんでました(初日と2日目に発生)。あと前段階で無茶苦茶機嫌が悪くなってましたね。

生理痛に苦しんでいると母が「妊娠して出産したら楽になるわよ」なんて根拠もへったくれもない事をよく言っていました。実際は多少改善されたかも…?程度で生理痛が無くなった訳ではありませんでした。…残念すぎる

そんなもんで今もお腹が痛い…動きたくない…と月に2回は悶えてます。そんな様子を見た70を越えたご老体に「…生理っていつ終わった?」何て聞いてみたところ返って来た有難いお言葉。

 

「少なくとも40になったらすぐって事は無いわよ」

 

…あっハイ……ですよね……。

そんな私はロリエをずっと使ってます。生理用品て割と「出会う」まで大変ですよね…。肌に合わないと本当にかぶれるし、下着や服を汚す事になるし…。なんとなくゴワゴワしてると感じたり、とにかく自分に合うものに出会うのに時間がかかる。たまにようやく出会えた!!と思った矢先にその会社が製品をちょっと変えたと思ったらアアアアアアってなってさようならする事もある。稀に。

そんな中私が今のところ何とか心の友としてやっていってるロリエ…なんだけれども、不満が全く無いかと言われるとそれはちょっと違う。というか、不満ていうわけじゃ無いけど痒いところに手が届いてるわけでもない感じ。

女性はわかる人もいらっしゃるかと思うけれど、横になる時に夜用を使っても服を汚してしまう事がある。原因は「つたい漏れ」

人のケツは立体で、そこには基本谷間がある。あるものなのだ…。でも下着は基本、その谷間に完全フィットしているわけじゃない。というか完全にフィットされたらそれはそれでちょっと色々問題がある。主に見た目の。そして生理用品は肌についているのではなく下着についている。下着に沿っているのであって、肌に沿ってはいない。肌に触れはするけれど。結果的に、経血は肌を伝って生理用品が無い、谷間の終わりである腰のあたりまで行ってしまう事がある。朝起きた時に本当にげんなりする。

これの雑な解決法は、夜用の生理用品の後ろに昼用をつけて腰近くまで延長させる方法と、頑張って気合いで横を向き続けて寝る方法。前者は無駄にお金がかかる。後者は気合いで行うから、失敗もあるし成功したらしたで緊張してなんだか寝た気にならない…なんて事もある。あと失敗したかもとハラハラする。

さて、今話した生理用品はよくある平べったい生理用品で、世の中には他にも色々あるわけ。タンポンとかカップとか。布ナプキンもあるけれど…私はいわゆる使い捨ての平べったい生理用品しか実は使った事ないです。中に入れる系は不安なので(個人の見解です)。布ナプキンも、洗うのしんどい…というズボラスイッチが入ります。

そんな私ですが、先日あるものが販売されたのが気になって気になって。

ソフィのシンクロフィット、です。

使い方としては、あくまでも普通の生理用品を付けた上で、量が多い時の補助的な存在らしい…けれど、使い勝手が知りたい。気になる……というわけで、使ってみました。

 

まずこのシンクロフィット、箱です。普通の生理用品のイメージで買いに行くと見つけられないかもしれません。そして先に話した通り、普通の生理用品との併用です。単独使用ではありません。

使い方は、簡単に言うと股の間に挟む。以上。ようは中に入れないタンポンですね。挟まってる感はガッツリあるので、これに慣れる事ができないと苦痛かも。

出血量にもよりますが、うまく噛み合ってる時は普通の生理用品はほぼ汚れず、シンクロフィットだけ取り替えれば済む状態が作れます。そしてこれがあるとつたい漏れしない…それが私にはとても助かりました。女性の多くは、月経中うつ伏せも仰向けもできればしたく無い…夜用を付けていても不安かと思います。その不安をだいぶ軽減してくれます。なにせつたわないから。

デメリットとしては、高確率でつける時、外す時に手が汚れます。これは作り的に多分仕方ないかも(ティッシュ使うにしても…汚れる可能性は有り)。

あと、シンクロフィットのウリである「シンクロフィット本体も包んでいる袋もそのまま便器に流せる」ですが、私は集合住宅の上の階に住んでいるので、もしも詰まったら…が怖くてどうしても流せないでいます。普通の生理用品の様に捨てています。なのでここの感想は本来の製品意図を伝えられない…。

あと…私の経血量では「多い日」は2時間も保ちませんでしたwwww この辺は個人差もあるので。

それから、つけ始めの状態の時は皮膚が擦れて少し突っ張る感じがして違和感大になる事があります。これは少しすると落ち着いてくる。

 

…と、ここまで書いといてなんですけど、ステマでもなんでもないです。自分が使った感想。何か赤裸々でむしろ申し訳ない(いまさら)。

でも一度使ってみる価値はある気がします。あとは値段と量の折り合いかなぁ(個人の感想)。

 

(by イワャカン174)

 

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皆勤賞という悪夢の始まり

皆勤賞…それは学校や園を年単位で休まずに登校登園すると貰える、昔ながらの賞。

ぶっちゃけ悪の根源じゃない?

いや、さすがに言い過ぎました。根源までは行かないかもしれません。悪ってほど悪でもないかも。でも私は、この皆勤賞が素晴らしい賞である事よりもその後の「後遺症」の方が心配になる。

私自身、小学校6年間皆勤賞でした。インフルエンザや指定の病気以外は休まず登校し、毎年皆勤賞を貰い、最後の6年目には6年間集大成と言わんばかりでした。勿論子どもの頃、そりゃ嬉しかったです。勉強ができる子どもではないしかといって足が速いわけでもなく、賞を貰えるような芸術センスもない。何者にもなれない「平凡」な私が、根性だけで手に入れられる数少ない賞でしたから。とにかく何か「賞」が欲しい。「平凡」じゃなくて「凄いね!」って言われたい。そんな子どもの心には、根性で何とかなる皆勤賞は自分でも手の届く輝かしい「賞」でした。

でも、中学生になって私は皆勤を捨てました。思春期独特というか…よくわからないけれど、何かに疲れてしまったんです。

毎日が楽しいのにふと襲う虚無。変に達観した様な気持ちになって、全てが馬鹿馬鹿しいなと思ったり。英語は苦手なのに洋楽にかぶれ、字幕の映画を漁り見たり。かといって学校で洋楽好きな子達を見ると、私はそんなんじゃないと謎のプライドが首をもたげる。

今思うと見事な厨二病状態…!!!!

そんな謎の状態は、無駄に心を疲れさせます。いわゆる「心が風邪をひいた」状態です。ここでサクッと休んでしまえばいいんですが、私にはそれがとにかく難しかった。なにせ、その頃の私が人に誇れる事といえば「とりあえず健康が取り柄で学校を休んだ事がない」事だけでしたから。

これ、他の人が見て「そんな事ないよ!貴方にはこんなに素敵な所が!」とか言われても、申し訳ないけどそんな事どうでもいいんです。自分が、自分の誇れる物はコレだけだ、と思ってるんです。人の意見は聞いてないんです。というか、人の意見が聞けるくらいなら多分もう少しサクッと休めたと思います。

そんな自分でしたから、とにかく休む事が「悪い事」でした。自分を本当に何もない「平凡」にしてしまう。「取り柄のない何か」にしてしまう。誰も褒めてくれない。休む事は悪い事のはずだ…。別に誰に責められたわけでもないのに、そう思っていました。

ちなみに、私の親は度を超えない限りそうした事には理解のある人でした。むしろ「無理するくらいなら1日2日休むくらい大丈夫よ」というタイプだったので、意地でも休もうとしない私がむしろ不思議だった様です(親子で性格の差が激しい)。

そしてある日、私は休みました。朝、布団から出ずにいると母が「具合悪い?」と聞いてきます。そこまでじゃないけど、行きたくない。その一言を口にするのが何故か辛くて悔しくて、布団の中で母に見えない様に泣いたのを覚えています。今思うと自分でもそこまで?!と思うけど、それくらい緊張する出来事でした。母は「じゃあ休みますって連絡するよ?」と確認し、私は母にそれを頼みました。その後は昼までゴロゴログダグダし、お腹が空いてリビングに行くまで母は特に何も言ってきませんでした。

それからは、逆に定期的に休む様になりました。感のいい先生なら多分気づいたと思いますね。それくらい定期的に…というか月に一回。休まなかったら翌月に2日休みました。そして大人になってから知ったんですが、このいわゆる「ずる休み」の時、親はなんて連絡してたのかと思ったら「心が風邪をひいたみたいなので休ませます」と言っていたそうです。隠す気の無い親!!

 

皆勤賞を達成するために、体調が悪いのに登校してくる人もいます。遅刻や早退はするけれどとりあえず登校する。もはや皆勤賞は「健康だった」賞などではなく、ただ根性論だけの「具合が悪くても休みたくてもとにかく学校へ行く」という思考停止した行為になっている人が、少なからずいます。

っていうか丸一年間一切病気もしないし疲労も感じないなんてむしろあり得なくない?その方がホラーだよ?!

風邪だって、このコロナ禍で痛いほど感じますけどうつりたくてうつってないんですよ。熱なんてでないでくれよしんどいんだからって思ってるのにどこかでうつされるんですよ。健康に注意してても部活で遅くなったり、勉強してたら夜遅くなる事も普通の話です。もっというと遊んでたり電話してたら夜中なんて、青春真っ只中でむしろいいじゃないですか(違う、そうじゃない)。

疲れも、学生や若い子が「疲れた」というと「まだ若いのに。仕事してるわけでもあるまいし」という大人が必ずいますけど、学生だって疲れますよ。色んな人と話して会ってれば多少なりとも疲れるもんです。

 

疲れた時や体調がすぐれない時、どうすればいいか。その教育や訓練を、この国はあまりしません。「健康であれ」と賞はくれますが、そもそも大多数の人が疲れたり体調を崩すのに、それについての対処法を教えてはくれません。それどころか、大人になっても休む事は悪とでもいう様な扱いをうけたり、正当な権利であるはずの有休すら取る事に後ろめたさをまだまだ感じさせる会社が多くあります。

具合が悪くなったら、疲れが取れなかったら…1日休めば回復するうちにちゃんと休むという事、「いい休み方」ができる方が、本当はいい事なんじゃないのかなぁ。

皆勤賞という「特別」は、自分の体や心を犠牲にするところが、少なからずあるなと今は思う。学校に行くのが辛いなと思いながら行った日もあった。電車の中で寝ながら学校に行った事も帰った事もあった(登校片道電車で1時間だった)。中学生になって「休む」事が後ろめたく罪悪感を持つものになっていた。でもそれだって、そんなに罪悪感とか感じる必要はやっぱり無かったと思う。

本当の本当に、健康に注意して皆勤を成し遂げた人もいると思う。でも子どもだって、本当は学校に行きたくても何かしらの理由で(自分だけでなく他人由来だって)行けなかった子もいると思う。その子がもし、休んだ事を後ろめたく思ってしまうなら、皆勤賞は無い方がいい気もする。

健康にただひたすら気をつけて「休まない事」を褒めるべきなのか、自分の心と体に向き合って寄り添うために「休む事」を褒めるべきなのか。…というよりも、褒めなくてもいいんだけれど、後者に対して「罪悪感」を感じるならやっぱり皆勤賞は無い方がいいと思ってる。小さい頃の思い出というには、大人になってもこの「罪悪感」は尾を引く。「休み方」のわからない大人ができあがっていく。その原因の一つが、私は子どもの頃の「皆勤賞」だと思っている。

あの頃、皆勤賞だと内申表が良くなるとか受験や会社へのいいアピールになるみたいな話もあったけど、もしそれを素晴らしいととる会社があるならあいにくと私はブラックかなと疑うし、学校の理念ともうまくいく自信はない。

休みは時には必要で、本当の「ずる休み」なんてそうそうあるものじゃ実は無いと思う。

 

熱が出なきゃ休めない世の中なんて、poison。

 

(by イワャカン174)

需要と供給と私の求めるもの

以前、地域の「ママひろば」なるものに行ってみたことがあります。とりあえず先にオチを言うと「ヤッベ、ツッコミ入れたいけどああああ消化不良」でした。概ね悪いのは私の性格。すまんかった。

 

「ママひろば」では産後のママの体調についてや赤ちゃんの話、簡単な産後体操に、雑談タイム。

もうね、ツッコミたいことはいくつかあったけれど、その最たるものが「女性は誰かと話す事でストレスを解消する所があってね!人と話すのは本当にいい事なの!」って助産師さん力説したのに、会の中で雑談タイムが一番少ないっていう。10分もなかったwww

どういうことだってばよw

またそんな助産師さんのお話にはこんなのもありました。

「ママになると失うものがあるの!それは自分の時間!!自分の時間を取れないストレスは、災害に遭った時のストレスに匹敵するんです!」

…うん。多分間違ってなんかいないんだ。わかる。そういうの自覚した方がいいって話なんだよね。

でもさ、この「ママひろば」に参加してるのは赤ちゃんとママだけなのよ。これはあれ?自覚して、家に帰ったら自分で夫に「私の時間を作るから子ども見て!」って闘いなさいって事??いや、多分みんな疲れててそんな闘う気力も無いと思うんだけど???

そして「趣味とかできないよね!コーヒーも飲めないし」って畳みかけられたけど…いや、コーヒーは(人によってデカフェ)飲もうと思えば赤ちゃん寝たら飲むよ。ついでに言うなら私はスマホゲームとかする人だから赤ちゃん寝たらゲームしてるよむしろ寝ても30分しか寝れないとかだからもう起きてやるってゲームしてるレベルだよ。

何が違和感というかモヤモヤするって、これ多分助産師さん「共感」なんだよね?わかってる!あなたはとても頑張ってるよね!疲れてるけど自分の時間も取れないくらい頑張ってるよね!…っていう。でもそれでおしまいなのよ。

違う違う違う…そうじゃなくてさ。それだと「…で??」で終わっちゃうじゃない。そうじゃなくて「共感」から「一歩踏み込んで提案」しないとさ…共感はそれこそそこに集まったママ同士でいいじゃない。仕事としてそこそれでおしまいにするのはちょっとさ…と。勿論押し付けるのは違うけど「寝たくても寝る暇ないよね…欲しいよねー。せめて少しだけ空いた時間をゆったりしてみてほしい」とかさ「しんどい時こそネットでベビー服見たり、ネットでウィンドウショッピングするのも楽しいよ」とかさ(あくまで一例です)…。雑談でもそれこそ「ずっと泣いてて辛い時期があるけど、そんな時をどう越えるか…どうしてるか話してみよう」って提案とかさ…。やり方なんてたくさんあると思うんだけど、なぜにか全て言いっぱなし。しかも1人対全体への一方通行なもんだから、心にも響かないどこへ向けてなのかわからない「共感」。この「共感」にどれほどの意味があるんだろう。しかもその助産師さんはとても満足げだった。

まま、でもこんな事思ってるのはあの場にいた私だけかもしれないので、とりあえずここに吐き出して終わっておきます。そしてそんな私はモンハンライズの発売日が待ち遠しくてなりません。

 

(by イワャカン174)